花の窟神社の辺りで、本宮道と浜街道が分かれていたということで、道標などの史跡が残されています。
この口有馬道標は、花の窟の西の曲がり角にあり、熊野三山、西国巡礼はここから右へ曲がって行くべしという指示でしょう。
右へ曲がらずに眺めの良い松林道をまっすぐ進む浜街道では、行く手には志原川が海に注ぎ、旅人は波の引間を見計らって走って渡るため、俗に「走り湊の難所」と言われました。渡し賃の一文を節約するため、波打ち際の急流を渡ろうとして高波にさわられ命を落とした人も多かったそうです。そのため、明治のはじめには、14基もの殉難無縁墓碑が立ち並んでいたと言われています。
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