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世界遺産伊勢路セミナー 曼荼羅絵解き−伊勢から熊野へ 2006年1月28日 |
内容 その3
(ページ作成者が聞き取ったメモに基づいてまとめた文章ですので、誤っている部分もあるかもしれません。配布された資料を画像で載せましたので、図を見ながら読んでいただくと分かりやすいと思います。)
●熊野観心十界図
(このセミナーのポスターに使われた、津市内の自治会が所蔵しているもので絵解きが行われました。/ 文字なし(657kb) ・ 解説文字入り(658kb))
熊野比丘尼が絵解きをして全国を回っていたのは、那智参詣曼荼羅図と熊野観心十界図です。
中央より少し上に「心」という文字があり、その周りに半円状の道があって人が歩いていますね。右の方から順番に見ていくと、赤ん坊にはじまり子供になって大人になっていきます。男も女もいて、中央くらいでどちらも一番いい時期を迎えて、あとは左の方へ進むと年老いて下り坂になっていきます。最後はおじいさんになって、墓場でカラスや野犬に囲まれるというちょっと悲惨な状態。墓地の形式から描かれたおおよその時代が読み取れます。また、人の後ろには樹木も描かれています。右の方はウメなどが咲いて、真ん中辺りは葉が生い茂って、左の方へ行くと紅葉して落葉してます。人の人生になぞらえて、四季の移り変わりが描かれているのですね。
墓地のすぐ近くには閻魔様がいます。この鏡で全て映し出されてしまうので、ウソをついても無駄だと言われているんです。ここで、天国に行ったりいくつもある地獄へ行ったりと十界へ振り分けられることになる。
図の下半分はいろんな地獄が描かれています。閻魔様の少し下には奪衣婆がいて、三途の川を渡る人たちの衣を奪って後ろの木に掛けています。そこから下にはいろんな地獄が広がっていますが、左下の方には地獄の釜みたいなものもありますね。
左下の方は中世の頃からあった伝統的な地獄ですが、右下の方に4つほどまとめて描かれているのは、室町時代になってから突然出てくる地獄です。血の池地獄(右下端)とかがあります。血の池は出産のときの血から連想されているもので、女性しか行かない地獄、しかも出産した女性が行く地獄です。その少し左上には、竹林で何かしている絵がありますが、これは固い地面を手で掘って竹の子を探す地獄。こちらは出産できなかった女性が、男性のセックスシンボル、あるいは産めなかった子供に見立てられた竹の子を探すというところです。他にも、浮気をしてた男性が行く地獄として、きれいな女の人を追いかけて針山を歩き続ける地獄なども描かれています。
女性の場合は、出産してもしなくても地獄へ行かされるので、とても不合理ですね。そんな中、血の池地獄に行った人の中にはハスの葉のようなものに乗って救われている人がいます。これは何かというと、男子を産んで家の存続に貢献した女性が救われるということです。戦国時代から江戸時代にかけて「家」という制度、今のような家族で暮らして子孫を残して家を続けていく制度が出来上がった。そういった時代背景から生まれてきたのが、血の池地獄などの新しい地獄ということになります。男子を産んで家の繁栄・存続に貢献すれば救われるし、そうでなければ地獄で苦しむということです。
こういった時代背景と合わせて地獄を見ていると、前近代の女性が置かれていた立場の理不尽さが伝わってきます。また、そんな理不尽さを押し付けられた女性である熊野比丘尼が絵解きをしていたというのが、これまた何とも言えません。
今日は時間がないのでこのあたりで終わりますが、伊勢から熊野を目指すときに、絵解きをしながら行ってみるのも楽しいのではないでしょうか。
●ページ作成者の感想
「絵解き」も「曼荼羅」も全然知識がなかったのですが、わかりやすい解説で楽しく聞くことができました。西山先生のお話の中にもありましたが、昔はインターネットもテレビもラジオもなかったので、曼荼羅を使った絵解きを聞いた人たちは、熊野や伊勢という地について想像を膨らませ、思いを馳せたことでしょう。伊勢から熊野を結ぶ伊勢路、現代風の絵解きみたいな感じでウェブを作ったり文章を書いて紹介できれば、伊勢路の魅力をもっと伝えることができるのかもしれません。イラストマップをセッセと作るよりも、そんな物語を織り交ぜながら作るものの方が良いのかもしれませんね。
また、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈によって伊勢の風景もずいぶん変わったはずだというお話、面白いですね。今は本当に伊勢神宮の街という感じですが、それまではもっといろんな要素が伊勢にもあって、それらがごちゃ混ぜになってすごい活気があったのでしょう。そういう土台があってこそ、情報発信地としての「伊勢」があったのでしょうね。 |
→その1 伊勢参詣曼陀羅図 →その2 那智参詣曼陀羅図 |
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