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昔の川丈(川端)街道はどんな道でしたか? |
今では和歌山県側に国道168号が通っていますが、熊野川沿いの道としては、かつては三重県側の川丈(川端)街道しかありませんでした。今は川沿いに県道
小船紀宝線が通っていますが、そのほとんどは、かつての川丈(川端)街道の上に作られた道です。私が子供の頃には石畳道や土道がそのまま残っていたのを覚えています。昭和35年頃から工事が始まって、40年頃には浅里の集落、飛雪の滝まで舗装された道路に変わっていたと思います。そのため、川丈(川端)街道で昔の道が残っているのは、宣旨帰りなどわずかな部分になってしまいました。
熊野古道がこんな風に盛り上がっている今となっては、あの道を残しておけば、きっとすごく価値のある道になっただろうと思います。とは言え、そんな昔のことでしたから、道を整備するのに反対する人はいませんでした。もちろん、川丈(川端)街道が熊野詣のための道だったという事は、この地域の人はみんな知っていましたが、車が通れるようになって便利になるから歓迎するという感じだったと思います。それはそれで仕方がないことでしょう。 |
かつての川丈(川端)街道の上に作られている県道 小船紀宝線。熊野川に沿って崖沿いに道が通っています。 |
当時は川舟が日常的に使われていたそうですね? |
道の整備が進められていた頃は、まだ熊野川が交通のメインルートで、川舟がたくさん行き来していたのを覚えています。帆を立てている「三反帆」もありました。ちょうどこの地域は風が上手い具合に吹きます。朝のうちは本宮から海へ向いて風が吹くのでそれに乗って、昼からは海からの風(南風・まぜ)に変わるのでそれに乗って川を上っていくのです。もちろん、自然条件なので日によっては風がなくて、櫓で漕ぐこともあったのでしょう。
それから、今ではすっかり無くなった渡しも、昭和37年頃まではありましたね。熊野大橋はすでに掛かっていたので、成川の渡しはありませんでしたが、河口近くにあった池田の渡し、少し上にのぼった牛鼻の渡し、そして乙基の渡し。池田の渡しには汽船などが集まっていた記憶があります。
この辺り(紀宝町)は生活圏・経済圏が新宮なので、昔から乙基の渡しで新宮へ渡って買い物したり、仕事に行ったりしていましたね。渡しのほかにも、焚物(薪や炭)を運ぶ川舟も上流のほうから新宮へ来ていました。 |
熊野川自体もずいぶん変わったと聞きますが? |
熊野川自体も、昔はずいぶん違いました。まず、水量がかなり減ってしまいましたし、水の色も濃い緑色や水の濁る日が多くなりましたが、昔はもっと透明でした。その影響もあるのでしょうか、魚の量がずっと少なくなりました。この辺りはもともと落ち鮎漁が盛んで、屋形船がたくさん漁に出ていて、一晩で30貫(=120kg)も獲れることがありました。今ではせいぜい20kg程度。大きさもかつては30cmくらいのものたくさん獲れましたが、今では20cm程度です。
上流にダムができたり、分水して尾鷲やいろんなところへ水を持っていって水量が減ったことに加えて、林道や県道や農道がたくさん通って山自体の保水能力が失われてしまったことで、熊野川の環境がかなり悪くなってしまったのだと思います。 |
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乙基の渡し付近の熊野川。よく晴れた日にはきれいな川の流れを見ることができますが、その姿はずいぶん変わってしまったそうです。 |
そんな今の熊野川を見て、どんな風に感じますか? |
昔の熊野川の姿を知るものにとっては、そんな今の姿は寂しくもあり残念でもあります。でも、昔の姿を取り戻すことは難しくても、せめて今の姿を維持したいと思っています。
熊野川の姿が変わってしまった原因はいろいろありますが、人と自然が共生して、熊野川の周囲の森・山、そしてそこに棲む魚などの生物がバランスよく生きていけることが大切です。地域の人間は、熊野川やその周りの自然を大切にしていますので、それをわかってもらった上で、熊野川の魅力を楽しんでもらえる、そんな人がリピーターになってくれればと思います。
お客さんがたくさん来るのは良いことですが、平気でゴミを捨てたりするような人がたくさん来ても、熊野川を活かした地域おこしにはなりません。熊野川の自然を守り・活かしながら地域おこしにつなげていきたいと思います。まさに、エコツーリズムの精神で体験型の観光を進めていくのが良いと思っています。 |
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