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熊野市百科大辞典:周辺の町や村 『早田』 <
くまのしひゃっかだいじてん:しゅうへんのまちやむら 『はいだ』 > |
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熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
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早田 (「はいだ」と読みます) は尾鷲の南、戦国時代に海賊大名として名をはせた、九鬼氏の故地である九鬼 ( 九木とも書く ) から岬を一つ越えたところの湾奥の漁村です。早田湾口の北側が明神崎、南側が橋掛崎です。私自身は行ったことが有りませんが、漁村というのは、船で緊密につながっていまして、私の母の里である 梶賀 から、陸を行くと結構遠いのですが、船では隣みたいなものです。
私の母も、早田も、早田の人々も良く知っているようです。山村の場合、昔は山一つ隔てていた二つの村でも、峠を越えて緊密なつながりがあり、嫁取り婿取りの往来もあったが、現在では、道が谷沿いに出来てしまったばっかりに却って遠くなってしまっているような事があります。漁村の場合は船があるからそんなことはないです。
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港・早田浦 ( 東 良哉 )
徳川の時代になり海運が盛んになり隣の九木浦の港があり九木崎が難所であったので、早田は、風待・日和待の港に利用されました。寛政五年 (1793) および明治二年の尾鷲組大指出帳に「漁間に読木・薪木等伐出し廻船いさばへ売申候、廻船も折々汐繁りに入津仕に付宿等を渡世仕候」とある。
「廻船」は今で言う商船、「いさば」は五十集物 ( いさばもの ) で、干したり塩漬けにしたり薫製にしたりして処理した海産物の総称であり、「いさば船」とはそれを運ぶ船
また紀伊続風土記によると「三方を負ひて東の方海に向ふ港口まて一五町船繁りよく」とあり、明和七年 (1770) 大坂で刊行された増補日本汐之記に大嶋、浦上、勝、二木島、などと共に次のように書かれています。
紀州二木嶋 上下 大湊 葉枝 ( 注: 早田 ) へ三里、 湊の口に笹島といふ小嶋有、 下口の鼻をたつが崎 ( 注: 楯が崎 ) といふ。 是より下入海なり。 内に網代の湊かぢか湊 ( 注: 梶賀 ) かだ浦湊 ( 注: 賀田 ) 長柄川口 ( 注: 名柄 ) 荒井其外在所多し 三木浦 二木島より壱里下能き上り湊下りは不入。入海の内なり。奥に在所多く有。 古井 ( 注: 古江 ) といふ上り湊も有 三木崎出鼻三木浦より壱里下かうの嶋と云鼻に小嶋有。磯二所有。 紀州葉杖 ( 注: 早田 ) 上下 大湊 九鬼へ半里 此湊大入海の内也。湊の内に小嶋あり。 同 九鬼 上下 大湊 にしきへ八里 葉枝続き同じ。入海の内なり おわせ湊九鬼より弐里下 引もと ( 注: 引本 ) 川湊おわせより壱里下 やぐら ( 注: 矢口 ) しお懸り すがる ( 注: 須賀利 ) 上り湊 九鬼より三里下 此湊の沖に平磯有 ふたまた西懸りなり 嶋のかづら ( 注: 島勝 ) すがるより一里半下 城 ( 注: 白 ) 小湊 浦の湊の口に小嶋有。此所より長嶋迄の間小嶋多し。 長嶋西懸なり
天保一三年(1842)以前にあったものをこの年刊行した、 日本船路細見記 の中に
新宮より九木へ十七里 此下をうとふの浦といふ。・・・中略 はいたは上下みなと也。尤入海の内にてみなとの口出島有。 九木よりすがるへ三里
前にあげた増補日本汐路之記とほぼ内容が同じである。早田は、この様に湊として栄たことがわかります。 なお、ここで、上下というのは、上り下りで、上りは江戸から上方へ、下りは上方から江戸へ、を指します。 天保一三年(1842)九月勘定奉行提出の海岸浅深状況には
覚 一、 浦内深さ拾壱間 一、 在浜より浦口迄七町拾五間 一、 浦口深さ弐拾間 一、 浦口横浜ハ三百間 右者当浦海岸浅深を相調べ書上申処如此御座 候。以上 天保十一二寅十月 早田浦庄屋半三郎 印 玉置利兵衛殿
との報告が尾鷲大庄屋文書に有ります。これにより早田湾の規模がわかります。
諸国の廻船が入津するので山原 ( 早田の地名 ) に高札所 ( 廻船御高札・廻船御添札・異国船抜荷高札・御城米御高札 ) が明治 2年 (1868) まで在りました。又、山原には、御口前所 ( 二分口役所 ) もありました。この役所は、漁獲高の二分 ( 二割 ) を徴集する藩の役所で、役人は、東徳太郎 ( 庄屋も歴任しています。東本家で屋号がひがし、小字も東にすんでいました。船宿もしています。商人もやっています ) いまは、子孫は、九鬼にいます。早田には、たて場 ( つまり船を陸上にあげて船を置く上架施設 ) がありました。木船のため船底に虫、牡蠣等がつくのでたて場にたて船して ( つまり船をあげて ) シダ焚き船底の腐食をふせぎました。このたて船にたて料として課税されていました。たて場の使用料 ( 口銀 ) をたて口といいます。御口前所はたて口の徴収もしています。
船宿は八軒 喜平治・四郎左衛門・彦之丞・伝右衛門・栄三郎・悦之助・半平・阿波屋徳太郎。以上の各船宿が回漕店の役割も行ないました。宿をしていた家の墓地には、今も船乗り、廻船問屋主人の墓が在ります。当地で廻船を営むものが亀七・嘉吉が大型廻船を造った記録が尾鷲市史の中にあります。
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起源 起源については、不詳であるが、山方、浜方が弓を引いて吉凶を占う方法は、鎌倉期の方法である。また、神社の勧請時にさかのぼるならば天正年間 ( 1570-80年頃 ) の起源であり、慶長の検地に、早田はわずか七軒であったが其の頃から行われていた可能性もある。現在の行事は、共同漁業であった名吉網 ( みょうぎち網、鰡網 ) の役割が御弓行事に反映している。弓の作法は尾鷲神社例祭作法 ( 紀州小笠原流 ) と類似点が多い。又、伊勢大神楽が組み入れられている。尾鷲市内で弓の行事があるところは、尾鷲、九鬼、早田、三木里、賀田、曽根、盛松 ( さがりまつ。弓の行事があったのは古い地区の時代。早田も 2000年より中止と総会で決まった )である 慶長の検地は、関ヶ原の戦いの後紀州に入った浅野氏による慶長 6年 (1601) の検地。慶長の検地は天正年間に豊臣秀長の命を受けて堀内氏が行った天正の検地に比べるとはるかに厳しかった。 ( 北山一揆参照 ) 昭和 3年 (1928) に盛松は、三木浦と合併、住民は湾奥の三木浦に移住、その後、弓の行事は無くなった。
------------------ 行事の流れ ------------------
的木生やし 地下山 ( 早田の地区所有林 ) で、的を編む材料の杉を切りだし削木( そげ )と言う細長い薄い板に加工し川につける。削木は、正月 2日にひきあげる。 おめき おめくというのは、大声で叫ぶこと。大晦日の夕方、東長太郎家の墓の所で神社当屋 ( その年の神社の管理をする当番 ) が、懐に「がし」 ( 魚の名前、かさご ) を入れて叫ぶ。本来魚は「おこぜ」をもちいるが、今は「がし」で代用している。叫ぶ内容は、新、旧あり。 新は、現在の中心共同漁業の鰤大敷網の大漁の願いを故東丈松翁がアレンジしたもの。
ナサ鼻からカラカマかけて、鰤、鮪、鰹をそろえて、えんやわ一 明神山の荒見小屋の屋根の上から目むきだして、えんやわ一 台船持て来い、えんやわ一
ナサ鼻は、明神崎の少し北の岬で九鬼と早田の境。カラカマは橋掛崎のすぐ北の岬。要するに、早田の領海全域にわたってという意味。明神山は、早田湾口北側明神崎の山で、そこに、小屋がけをして魚の来るのを見張った。見張り小屋を荒見小屋、見張りの人を荒見という。今も大敷の網場を見下ろすところに荒見小屋がある。鰡の荒見は今はないが昔は荒見の松があった。台船というのは、大漁の時に輸送用の予備の船。台船持て来いというのは即ち大漁だということ。 旧は、名吉網 ( みょうぎちあみ ) 漁、すなわち鰡網漁、を中心として魚が取れることを願って叫ぶ。
松葉( 松尾 )の鼻から木名の白浜まで、名吉、鮪、鰹、鼻をそろえて、えんやわ一 向井のべたら石の木影の小袖中から目むきだいて、えんやわ一 桶、籠持て来い、えんやわ一
松尾の鼻は明神崎、ここに松尾神社がある。木名 ( きな ) の白浜は、橋掛崎を回って早田湾に入ってすぐの南岸に浜がある。ここでは、縄文早期の縄文土器片が見つかっている。つまり松尾の鼻と木名の白浜で、早田湾全域を指す。向井は、早田の小字名でここにべたら石という石がある。尚、早田の縄文早期の遺跡は、早田湾北岸の東山でこの付近が最も早く人が住んだところと思われる。 おめいたあと、懐の「がし」を懐に入れたまま、ちょうと見せましょと言って「がし」を少し見せる所作をする。最後に一層のことなら全部見せましょと、言って「がし」を全体をみせて終わる、昔は、子供たちが当屋と一緒に叫んでいたが、何時の頃か子供の参加も無くなった。
「がし」 ( 本来は「おこぜ」) を見せる のは、猟師が山に入る時に猟の成功を祈って「おこぜ」をみせる作法と共通するところがある。 大晦日は、神社の夜ごもりで、青年団が行なっていた。古老によれば、茶の子と称し、筋目の家を廻り餅等をもらい食料にした。又、正月 1、2日の神楽の準備や練習をした。観音寺 ( 早田の寺 ) の除夜の鐘が鳴ると、年内喪中の家人は、弓行事が済むまで、寺境内には、入れない。神楽には、幣入舞と練り込み舞がある。幣入は、右手に鈴、左手に御幣を持って舞う祓いの舞、練り込みは、船上、境内など、天狗が先導した獅子の中に数人が入り舞う。笛、太鼓の曲は、道中移動に使われる。
正月元旦 青年団は、各家々を獅子神楽の幣入舞で御払いに回り、ひねり等もらう。弓引きの各当屋( 大当、小当 )は、弓の作法と行事の進行の練習を観音寺境内で行う。弓引きの浜方、山方が決まるのは、当屋関係でなく年長者が浜方を勤める。漁師町のため年長者が敬われる為かとおもわれる。 正月2日 神社大当屋宅( 今は、公民館 ) で、的、注連縄等をつくる。 的の編みはじめは、恵比須当番 ( 網船、網元 ) が一番の削木 ( そげ )をおき、次に稲荷当番が削木をおき十文字して、あとは各人が編み、縦 23枚、横 21枚で編みあげる。出来上がった板に、ふのりをぬり、紙をはる。ふのりに藁を黒く焼いた灰をまぜて墨を作り、藁で作った筆で、的の星 ( 的の真ん中の黒い丸 ) と、星のぐるりに円を書き、的が完成する。
同時進行で、的に懸ける注連縄 ( 7.5.3 ) をあみこむ。藁は、米藁である。しでを 3 付ける。飾りつけは、12 付いた干柿、榊、ゆずりは、だいだい柑子、えせぽ ( 馬酔木 )、裏白。飾り付けの意味は、 栄 ( = 榊 ) 譲り ( = ゆずりは ) て代々 ( = だいだい ) 花 ( = 馬酔木の花 ) が咲くという縁起かつぎ。 御弓行事に欠かせない御神酒の魚が「てっきり ( たかのは鯛 )」。この魚がないと御弓行事が出来ないと言われている。(尾鷲のヤーヤ祭も、「てっきり」の塩焼きがないと始まらない言われている。磯魚が祝い魚であった。)弓引きは、昼近くまで作法の稽古を仕上げて、海岸で潮こうりをとる。こうりをとるとその後は口をきいてはいけない。大当屋宅で裃、袴に刀さし、御神酒を待つ、他に、矢取り、潮打ち各 2人と役 ( 親船、掛け網、荒見、網船等 ) の人々が、裃姿で待つ。青年団 ( 当番地区民 ) は、褌に長じばん ( 現在は法被 ) 姿になり神楽やかた ( 社を乗せた長持ち ) をかつぎ、早田神社神前に、幣入神楽を奉納。さらに練りこみ神楽で稲荷神社前に同神楽を奉納後、大当屋宅に練りこみ神楽の伴奏で弓引きを迎えに行く。
当屋では、御神酒が始まる。的は正方形に近い形で各辺が東西南北になるように置いた的に区長、左右に弓引きが座りその向いに網船役が座り、各役が的のまわりにすわる。網船役が弓引きに、ゆずりはに魚の刺身と干柿の切実をのせたものに御神酒を注いだものを勧め、弓引きがいただく。かん徳利でかんしたかん酒で御神酒後、潮打ちの「よ一」という叫びともに観音寺に向かう ( 叫びは、名吉網全盛の頃、荒見がなぷら到来の知らせの合図。なぶらというのは、鰡の大群 )。御弓引き行事は観音寺で行う。 大当屋より観音寺境内へ 練りこみ神楽の先導で、潮打ち、弓引き、矢取り、的持ち、榊持ち、莚持ち、注連縄の役が行列して観音寺に向かう。持ち物で名吉網の役を示している。観音寺境内に着くと神楽の寄せ笛、太鼓伴奏中に、的の準備をする。的の用意ができると弓引きは、弓合わせの作法をする。的の近くまで円をえがきながら的、沖、稲荷に弓を合わせる。(昔は、恵方にも弓を合わせた)。 浜方から、浜方、山方と 1射づつ射て、2本射ると矢取りが矢を拾い行く。間神楽の練り込みの曲に合わして獅子舞をする。それぞれ 6回射て、合計 12本射ると中休みの御神酒が始まる。神楽の曲は、寄せ笛、太故になり、弓引きは、的の前にしやがみ、網船役が的を拝し、弓引き両名に御神酒後、網船役は的上部左右板を折る ( 魚のえらを〆る意味 )。そうすると、弓引きは、最初にした弓合わせの逆順に、弓合わせをする。その後、もとの場所に戻り、こんどは、山方から射りはじめる。
4回目の浜方は天に向って射る。この 4回目の弓引きの最中、青年団は、注連縄を奪い合いながら的を練る。つまり、的を皆でバラバラにしてしまう。参詣者は、ばらばらになった的木 ( 削木である ) を奪い合い各家に持ち帰る。持ち帰った的木は、大漁祈願の場合は、神棚に、魔除け祈願の場合は、玄関に、刺す。 弓引きは、観音寺本堂に上がり、住職より御神酒を受ける。昔は、弓引きが、各家々をまわり行事の終了を報告した。
行事中、矢が大星の注連縄の橙に当たると、青年団 ( 当番地区民 ) は、地区事務所 ( 漁協 ) より伊勢音頭 ( 道中 ) を取りながら (つまり歌いながら ) 寺の境内に酒樽を運ぶ。樽は、青年団長 ( 区長 ) が割り御神酒は、網船役がそれぞれの役につぐ。その後は、参詣者に振舞われる。昔は、矢が当たると良き年とされた。星を当てた弓引きの家では、星祭をする。 次の当番 区役員は、次の当番を大当宅(公民館)で振り籤にてきめ、小使い役が御神酒の知らせに行く。各宮の当番 ( 神社当屋、稲荷当番、網船当番 ) は、4日に終始参りを行い新しい当番に引き継がれる。新しい当番になった人の内で伊勢講が当たった人は、4日に水杯し伊勢に出発、当日は外宮参拝、翌日内宮を参拝、一番神楽をあげて軒数分の内宮の御礼を受けて帰郷 ( 現在は、御札は、尾鷲神社の配布式に受ける )。 余談、古来大当は、本家筋の家であり、小当は、隠居(分家)で合ったが、今は違う。網船役の御神酒徳利は、山本久次郎家 ( 久之宅 ) の徳利を借りていたが、東正弘が網船役のときを最後として、いまは、代用の徳利を区が購入。山本家の徳利が、祭りの始まった時代から使用されていたとすると同山本家は、昔祭りを司取る家であったのかと思われる。弓の作法も説があり神社の祭紳が神功皇后で朝鮮征伐のおり身重であったので腹にあたらないように当時の作法となったと言われる。
神功皇后については、熊野市の獅子岩と和歌山県の古座の 木葉神社 に伝説あり。
正月4日 神社当屋、稲荷当番、網船当番の新・旧が各当番の宮に終始報告。 おこない 正月6日 観音寺、本堂にて住職による大般若理趣分経による祈祷がおこなわれる。役員、檀家参拝 ( 同寺の祭本尊は、十一面観音菩薩立像で江戸初期の作 ) 初総会 共同組合 ( 区 ) の総会。公民館で行う。収支報告後、御神酒の宴がある。昔は、地区運営の煙草、酒、菓子等の運上金の入札と地区運営について話合いが持たれた。公民館の前は、組合、その前は、村役宅で行われたのであろうか。 御日待ち 太陽を拝する祭で、網船役が中心で男だけで行う。午前中は、精進で餅を付き浅間さんに御神酒、餅を供える。御神酒の宴は、網船役宅 ( 当地の浅間さんは、字森の上の山に祭られ、大日如来坐像の石仏がある。昔は、社も在った ) 節分 ( 年越え ) 節分と言えば豆まきであるが、早田では、玄関に撒くのは、川でひらった小石を撒く。鬼の目つきは、柊木枝と魚の頭のイオ串と二本一組で、二組用意する。各戸で夕方行う。まず、雨戸を閉め、たいてい仏壇の下にある錠前を少し開け、「福は内」を 3回言って戸をしめる。そのあとに玄関の戸を少し開け、「鬼は外」を 3回言って玄関の戸を一度閉めた後、戸口と勝手口に鬼の目つきを刺す。家人は、神棚、仏壇に豆を供えた後、各人数え年の数の豆をいただく。今は、サッシ戸になり、石をやめ豆になっている。撒いた豆を食べるとしらみがわくといわれている。 初午 ( 2月初午 ) 正一位早田稲荷大明神の祭。稲荷当番は、早朝から太鼓を打ち鳴らし、参拝を知らせる。参拝者は、詣でると当番が仕込んだ甘酒と御神酒を戴く。以前は、地区外からも参拝者があったが、現在は、区内の参拝者も関係者だけと少なくなった。稲荷神社の勧請は、寛政 7年 ( 1795 )。 早田神社祭礼 2月11日、建国記念日の日。江戸時代の古文書によると 11、12日は、若宮八幡宮、松尾大明神の祭礼となっている。祭礼には、湾口の松尾大明紳で神官による湯立神事と、青年団による和子神楽奉納後、帰港中船上で練り込み神楽を舞い帰港、三木若右衛門家のかど ( 庭 ) で矢車、神車、乱の舞の奉納があった。現在は、11日に早田神社、12日稲荷神社神官による神事の後、公民館で直会、後、大敷の漕ぎ船に神楽道具を乗せ漁場に行き、みと口と落し ( 大敷網の魚の入り口と落網のところ ) に海上安全、大漁祈願の幣入れ神楽を舞い網持ち終了後、船上神楽 ( 練り込み ) 舞、松尾大明神後の前に来ると 3回船を円をえがき帰港する。近頃まで、他所の崇敬している鰹船等が、湾口で停泊し、船玉 ( 船の神 ) に、払いの幣入れ神楽をした。 石経 ( 浦祈祷 ) 親船役が船を仕立て観音寺住職が早田領海を太鼓叩き、経を上げながら経を書いた小石を海中に投げ入れる。領海浄化、海上安全、大漁祈願を願う。
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港・早田浦 ( 東 良哉 ) 徳川の時代になり海運が盛んになり隣の九木浦の港があり九木崎が難所であったので、早田は、風待・日和待の港に利用されました。寛政五年 (1793) および明治二年の尾鷲組大指出帳に「漁間に読木・薪木等伐出し廻船いさばへ売申候、廻船も折々汐繁りに入津仕に付宿等を渡世仕候」とある。 「廻船」は今で言う商船、「いさば」は五十集物 ( いさばもの ) で、干したり塩漬けにしたり薫製にしたりして処理した海産物の総称であり、「いさば船」とはそれを運ぶ船 また紀伊続風土記によると「三方を負ひて東の方海に向ふ港口まて一五町船繁りよく」とあり、明和七年 (1770) 大坂で刊行された増補日本汐之記に大嶋、浦上、勝、二木島、などと共に次のように書かれています。 紀州二木嶋 上下 大湊 葉枝 ( 注: 早田 ) へ三里、 湊の口に笹島といふ小嶋有、 下口の鼻をたつが崎 ( 注: 楯が崎 ) といふ。 是より下入海なり。 内に網代の湊かぢか湊 ( 注: 梶賀 ) かだ浦湊 ( 注: 賀田 ) 長柄川口 ( 注: 名柄 ) 荒井其外在所多し 三木浦 二木島より壱里下能き上り湊下りは不入。入海の内なり。奥に在所多く有。 古井 ( 注: 古江 ) といふ上り湊も有 三木崎出鼻三木浦より壱里下かうの嶋と云鼻に小嶋有。磯二所有。 紀州葉杖 ( 注: 早田 ) 上下 大湊 九鬼へ半里 此湊大入海の内也。湊の内に小嶋あり。 同 九鬼 上下 大湊 にしきへ八里 葉枝続き同じ。入海の内なり おわせ湊九鬼より弐里下 引もと ( 注: 引本 ) 川湊おわせより壱里下 やぐら ( 注: 矢口 ) しお懸り すがる ( 注: 須賀利 ) 上り湊 九鬼より三里下 此湊の沖に平磯有 ふたまた西懸りなり 嶋のかづら ( 注: 島勝 ) すがるより一里半下 城 ( 注: 白 ) 小湊 浦の湊の口に小嶋有。此所より長嶋迄の間小嶋多し。 長嶋西懸なり
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早田浦のイカ漁法
------------------ 尾鷲郷土研究会会誌 「やなこ」NO.16 昭和 53. 5.14 から転載 ------------------
早田浦のイカ漁法について --- 伊藤 良 熊野灘沿岸の動力化以前の漁労習俗については、三重県教育委員会が昭和40年度から三ヶ年にわたって調査した漁労習俗調査報告書がある。この報告書は漁場・漁法・漁具はもとより漁民の信仰・祭祀をはじめ、漁村の年中行事・衣食住にわたって詳細に調査されている。 熊野灘というと一般に大王崎から潮岬までの約130kmにわたる長い範囲であるが、この調査は、南北牟婁郡の沿岸に限られている。これは県南部の調査ということであったが、この地帯は志摩と紀伊南端地区の中間に位置しているので、学術的にも興味が持たれたのであった。
しかし、限られた調査期間であった為、全漁村を調査する時間的な余裕が無く、尾鷲市では、尾鷲、須賀利、九鬼、三木浦、曽根、梶賀だけがその調査対象となった。 早田浦の 「イカ釣り漁法」は、早田浦のみという独特の漁法であるが、その起源は良く分からない。しかし、昭和 30年頃までは盛んに行われ、その漁獲量も多かったといわれる。
この報告は早田浦より通学の尾鷲高校 3年東良哉君が、土地の古老を聞きまわって、まとめ上げたものである。 明治 16年 (1873年) 発行の三重県水産図解に、早田のイカ漁法のことが詳しく載っています。以下、一段下げた注は、東氏がまとめたものから片岡が注にしました。
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チョッカラカシ漁法の概略 漁具としてまず長さ 50cm程度の細竹の小竿が一本用意され、竿の先にテグス一本、それから約 15cm のところにもう一本テグスが付けられる。 次に軽い桐材の鈎竿が用意される。長さ 70cmの竿で、中央より先に四か所イカを引っかける鈎が付けられる。
漁獲するイカは、スルメイカ・ヤリイカである。スルメイカは日本周辺の沿岸に広く棲息し、季節を追って南は長崎から北は北海道に回遊する。スルメイカの適水温は 10度から 20度で、昼は海の深所にもぐり、夕方から海面に近く浮上するので、漁船は夕方前に漁場に到着するように出漁する。
早田浦での漁期は主として冬季であるが、午後 4時から 7時の間である。午後三時ごろになると、漁船は早田港防波堤の突端にある竜王 ( 龍神 ) さんに参拝し、そのあと自船の船玉さんに、汐をかけてきよめ、それから漁場に向かう。
竜王さんに参拝というのは沖に出る途中で竜宮島を拝することです。汐をかけてきよめる時に「ついよ」といいいます。
漁場に着くと碇を下ろして船を固定していると、冬の海は薄暗くなってくる。そこで集魚のランプがつけられる。漁師はランプの下でスバルを海中におろして上下させ、イカの着くのを待つ。その中にスバルにイカがかかるとイカの触手を二本とり、船べりでたたいて伸ばし、チョッカラカシの竹竿のテグスにつける。
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碇のことを、定石 ( ていし ) と言います、伊勢方面では、キットと言います。 集魚ランプは、時代により松明、カンテラでした。まずは、イカを寄せます。ハネスバルという竿の先にスバルをつけた物を下ろします ( 竿のことをハネといいます。そういえば、私 - 片岡 - が子供の頃にも親が釣りに行くときは、ハネと言っていました ) 。 次に、手釣りのスバルをおろします。イカが手釣りのスバルにつく ( 寄ってくる ) と、スバルを上げて、イカのなぶら ( 群れ ) をハネスバルまで寄せます。チョッカラカシにつけるイカの触手は手釣りで釣り上げたイカを使います。ハネスバルにイカがついたのをみきわめて、ハネスバルを上げます。 漁師は舟の中央に位置し、船べりに乗り出すようにし、左手に持った竹竿を、海面に円をえがくようにしてまわし、イカのついてくるのを待つ。その中にイカが沢山集まってくるので、右手に持った鈎竿でイカを引っかけ船の中にあげる。多いときは一回に 2・3 匹もひっかかり、わずか20分で百匹もとれるという。
イカを鈎で引っかける漁法は他の地方にも見られ、これはトンボと呼ぶ手鈎漁具を上下させて採るもので、外に擬餌を用いてとる方法と二種類がある。早田浦のチョッカラカシ漁法は独特のもので、イカの触手を使うところに妙味がある。淡水のあゆの友釣りとよく似た感がある。 こうしてとれたイカはだるま型の乾しスルメにされ、戦前はよく名古屋方面へ移出され、早田浦の主漁業の一つで、イカの大漁のときは豊かな正月をおくれたという。正月行事の一つに大晦日に弓結が長太郎家の墓前で 「松尾の鼻から木名の白浜、名吉、鮪、カツオ エンヤラワ .... ( 略 ) 桶かご持ってこい 」とオメクが、この桶かごはイカを入れた桶かごといわれる。
この漁法もバッテリーや小型発電機の漁法に発達し、次第にすたれて行った。
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参考文献 |
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・熊野市百科大事典 ・「日本船路細見記」 |
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その他関連情報 |
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なし |
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