6月9日(日)午前10時30分から、木本神社で郷土の恩人吉田庄太夫を慰霊する「吉田大明神祭」が行われました。 「吉田大明神祭」は、その当時、新宮領主水野氏の所領は主に奥熊野であったが、一部、有田郡と日高郡にもありました。安政年間(1854-1860)、この水野領を、奥熊野にあった和歌山本藩領と交換することとなり、和歌山本藩領の、木本組及び北山組、入鹿組、本宮組の27か村を、和歌山領から新宮領へ組み替えることになりました。このときこれに反対する一揆が起き、木本では 極楽寺に数百人が集まりました。 吉田はこの一揆をおさめるために木本に派遣され、結局、一揆の意向を受入て、安政4年(1858)組み替えを中止しました。中止は当然藩の意向に反するので吉田はその責任を取って、翌安政5年、江戸藩邸で切腹しました。祭りは吉田庄太夫氏の徳を称え毎年行われています。 この日は、吉田庄太夫のご子孫も出席して神事は厳かにおこなわれました。 木本神社の拝殿の中、右端に吉田大明神として祀られていて、その奥に大明神と書かれた石碑があります。 神事が終わったあと、吉田庄太夫のご子孫になる方が母親とはじめてこちらに訪れた時に山中で体験した不思議な話や、吉田庄太夫の功績をわかりやすく紹介した紙芝居が披露されました。 自分の命に替えて、当時の人々の気持ちをくみ取った、当時では大変めずらしい徳のある方だったため、今までもそしてこれからも大切に称え祀ることを誓う祭りでした。
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