熊野市の荒坂中学校生徒で構成される「Arasaka11」による新春二木島史跡巡りツアーが1月7日に実施された。これまで総合学習で地域について学習しており、今回地域学習のまとめとしてツアーを企画しました。 この日は快晴で参加者20人にのぼり、生徒たちの案内で町内の史跡を廻り歴史のロマンに夢を馳せました。 二木島駅に集合した一行は、お互い自己紹介をして緊張感を和らげツアーに出発しました。 永用生徒会役員が「三重県以外から来られた方はいますか?」と質問すると、参加者から「静岡県、茨城県、愛知県」等と声があがり、遠方から来た参加者も多数いました。 最初は鯨供養塔で森下君が供養塔の説明をすると参加者たちは大きく頷(うなず)いていました。江戸時代にも鯨がたくさん捕れ、二木島でも捕鯨が盛んでした。江戸時代末期に浦賀にペリーが来航した目的は第一に開国であったがもう1つ目的がありました。それは日本近海に来て鯨を捕っているアメリカ船が難破した時に、水・食料・燃料を供給してもらえるよう交渉しにきたのでした。 ここで「供養塔に飾っているものは何か?」と永用君が質問し、(1)鯨の骨(2)鯨のひげ(3)板の三択で答えてもらいました。正解は(1)です。 2番目の史跡は津波地蔵。江戸末期に襲った津波はこの地蔵が建てられている所まできました。 今回地震の規模が見直され、二木島には約19mの高さまで津波がくると想定されたので、もっと高い場所に逃げる必要があると訴えていました。 3番目は、休校した荒坂小学校で、学校は明治9年(1876年)に二木島浦連合小学校として誕生し2年前にその幕を閉じました。今日に至るまでの134年間の歩みを紹介しました。 次の二木島港では、歴史的な面よりもリアス海岸特有の入り組んだ湾や風景を見て欲しいと考えました。 しかし学習を進めていくうちに、この港が歴史的に意義のある港であることがわかりました。 例えば二木島港は天然の良港であり東西航路の要所でもありました。風待ち港と言われ天候が回復するまで船が待機する港であり賑わいをみせた港でした。 5番目は唐人塚であり、暴風雨にあって助けられた中国の人が、長崎に護送される時に二木島に入港し、病に掛かりこの地で亡くなって埋葬されたことを説明しました。 最後の、鯨解体工場跡では実際捕っていたしろながす鯨の大きさを、メジャーを使って計測して見せ、実感を持たせることに成功しました。 当時湾内で鯨を解体すると湾全体が血で真っ赤になったと話してくれたように江戸時代から明治大正時代まで鯨漁は盛んでした。 ツアー参加者たちは、「中学生が案内するツアーに参加でき楽しかったです。参加者と話をしながら歩いてくれ、時間を忘れるぐらい早く感じました。和気あいあいとしたツアーでよかったです。いろいろ史実を調べ上げているのには感心しました。先生方も大変ですね。ツアー中に出される問題などもバリエーションに富んでおり大変興味深かったです。特に鯨の骨や鯨の長さは実際に触ったりしたのでインパクトがあった。」と語っていた。 生徒も「緊張したがだんだん打ち解けて話せるようになった。もう少し説明するところがあったが忘れてしまったのが残念だった。ツアーが終わったのでちょっと寂しい。」などと感想を述べていました。 主催:熊野市立荒坂中学校
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しろながす鯨の長さをメジャーを使って計測して見せました。 |
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