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海山町に伝わるお話〜孝子勘七〜 <
こうしかんしち > |
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紀北町(旧紀伊長島町、旧海山町) > |
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江戸時代、和歌山県田辺市あたりから紀伊長島の北側の荷坂峠、紀勢町錦までが、熊野と呼ばれていました 中でも、古座町より北側は紀州藩奥熊野といわれていました。紀州藩中心の和歌山城からはもっとも遠く、今のようにインターネットもテレビ・電話も無かった当時は情報のもっとも遅れる僻地でした。 そんな時代(1745年)に、この僻地、奥熊野から親孝行者の代表として、小山浦の勘七が選ばれ紀州藩主から賞米を賜ったのです。そう、これが、私たちが勘七を誇れる所以なんです。
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勘七の誕生勘七は奥熊野牟婁郡相賀組小山浦(現 海山町小山浦)で宝永七年(1710)父七郎右衛門の次男として誕生した。家には少しぱかりの畑があり、農業を営んでいた。兄の喜平治とは、異母兄弟であった。
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草履と下駄,幼少の頃から父母に背かず、よく父母の言にしたがっていた。ある日、隣の村まで灯油の買い物に使いに行く時、のことである。ある人が、草履を持って歩いている勘七を見てふしぎに思い、どうしてかとたずねた。 勘七は「父は足が濡れるといけないから下駄を履いてゆけ、と言うし、母は下駄ではすべったり、つまずくとわるいから草履を履いて行け、と言うので、道のぬかるんでいる所は下駄を履き、かわいている所は草履を履いているのです。父の言に従えば母に背き、母の言に従えば父に背く、それでこうしているのです。」と答えたという。
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〜母との二人暮らし〜 勘七はまだ十代の頃、一家の柱であった父と兄が病死し、貧乏のどん底においやられる。しかし勘七は、少しもひるまず、父と兄の供養をすませたあと、母のために働き続けた。昼は急板を登り薪炭をとり、夜は寒さの中で縄ない、草鞋作りに精を出し、また、父の残してくれた畑作業を、懸命になって耕した。そして少しの暇を見つけては、大きな農家へ雇われて働らきに出た。
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〜雇われていた勘七のようす〜雇われていた時に次のような話が残されている。勘七は雇い主に、私の母は老いて、自分で炊事はできません。だから、朝や夕餉の用意は私がしなければなりません。そんな状態なので、すみませんが、朝は少し遅く出て、夕方は少し早く帰して下さい。と頼み、了解を得て、その間、いっしようけんめい働いた。
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参考文献 |
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参考文書:孝子勘七文書
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その他関連情報 |
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なし |
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