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日与加久良(帆ヶ倉) <ひよがくら> |
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国道311号を走っていると、御浜町神木の山の上に大岩が見えます。ずっと気になっていたところへ行ってみました。そこは・・・・・御浜町神木(こうのぎ)木和田地区集落を見守る神様として古くから信仰のあった地です。 登り口に標識も何もなく、個人のお宅の道を入るように畑の道を抜けて登り口にたどり着きました。 近所の方にたまたま声をかけ、よくご存知の方だったので入り口まで連れて行ってくれました。
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花の窟湯立釜 <はなのいわやゆたてがま> |
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熊野市有形民俗文化財に指定されている花の窟湯立釜。 世界遺産 花の窟神社においては、かつて、毎年花の窟の祭りの日に、朝廷から「錦の幡」が献上されていましたが、ある年、熊野川の洪水によって流されてしまい、それ以来途絶えてしまったと言われています。 「錦の幡」も本宮大社に置かれるようになり、その宝も洪水の時に失ったとされており、現存する宝物としては、花の窟湯立釜と花の窟図 版木 菱川廣隆原画の2つのようです。 花の窟湯立釜は、熊野市歴史民俗資料館に置かれています。
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民俗・文化・歴史 情報一覧 |
永昌寺 <えいしょうじ> |
紀伊長島町前山地区の永昌寺は、町内の禅宗寺院には珍しく、仏光寺末寺ではない。同じ曹洞派ながら敦賀永賞寺の末寺で、創建は寛永十七年(1640)と伝えられる由緒ある禅寺である。仏光寺でも、昔からこの寺だけは他の末寺と別格のあつかいをしてきたということである。 同寺には、紀州徳川家始祖南竜公の位牌が安置されていたため、どんな高位の貴人でも境内には徒歩でしか入れなかったと伝えられている。その南竜公の位牌は、火事のために消失したが、天明三年(1783)当時の庄屋井上源助が、役所に願い出て、私費で造り寄贈したものが、その願書の控えとともに現在も同寺に残されている。 また同寺は、南北朝時代から戦国末期にかけて紀北一帯を支配し、赤羽谷開祖とされている豪族奥村家の菩提寺でもある。
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円通閣聖観音像・鰐口 <えんつうかくせいかんのんぞう・わにくち> |
紀伊長島区中桐にある円通閣には、紀伊長島区で最も古い仏像の一つとされている本尊「聖観音像」がある。通称は「中桐の観音さん」だが、西国三十三ヵ所の手引きとなるので「導(みちびき)観音」とも呼ばれる。また、朝寝坊をして札所になりそこねたという言い伝えもあり、親しみを込めて「朝寝観音」「朝寝坊観音」などと呼ばれることもある。 |
奥川吉三郎邸 資料室 <おくがわきさぶろうてい しりょうしつ> |
三重県熊野市木本町517−1にある旧奥川邸、現在は紀南ツアーデザインセンターとして使用している建物は、明治時代から現在に至るまで、紀南地域を代表する林業家の一つであった奥川吉三郎家の私邸でした。 明治20年頃に建築され、その後約120年が経過していますが、きわめて保存状態が良く、地域の発展に役立てるべく4代目奥川吉三郎氏から熊野市に寄贈されたものです。
※紀南ツアーデザインセンターは2022年3月31日をもって閉館となりました。 |
親子の杯 <おやこのさかずき> |
紀伊長島町本町の湊家に今も残る延享3年(1746)に書かれた「長島湊氏記」によれぱ湊治郎左衛門知定と云う人は、毛利家の臣湊伊予の子孫で関ヶ原以降長島浦に落ち着き徳川家の紀州入りのとき長島浦の初代大庄屋に任命された人です。
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おやま <おやま> |
おやまとは浅間神社のお祭りです。 三木里神社の境内の北側小山の頂上に祀られている。 浅間神社の本社は富士山麓の静岡県富士郡大宮町にある。 宗教は富士山の霊を伝えるという修験道である。 分社は千三百余社で全国の小部落の小さな祠を数えたら数万をくだらないといわれている。 おやまは、7月1日の1週間前から浜辺で業を積み、7月1日は早朝より先達を先頭に初穂竹を担いで山に上がり、社の際の立木に祭人が登り初穂竹をくくりつける。御幣が高いほどその年は稲作が豊年だと言い伝えられている。 その後、おやまの歌に合わせながら、大太鼓をたたきながら信者宅を回る。 信者宅ではお神酒とつまみなどを出して迎える。
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尾鷲弁 <おわせべん> |
言葉は文化、そして方言は歴史です・・・と最近思っています。 同じ市内でも山1つ越えればことばは<方言は>違います。 と思えば前に住んでいた松阪にも(それも海側)同じような方言がありました・・ 同じ言葉(方言)は海を渡ってきたのかなぁぁ・・ とすると同じような方言がずーっとはなれた場所で使われているのかもしれないなぁぁ・・と 外国の中で日本語がミョーになつかしくうれしくなるように、尾鷲人にとって違う土地で尾鷲弁を聞くと恥ずかしくもあり、なつかしくもあり、うれしくもあったりするもんです。。 さて、その特徴とは・・ |
傘(民芸品) <かさ(みんげいひん)> |
熊野市二木島町の津田ますゑさんは、民宿で料理を出すときに添える傘の民芸品を作っています。津田さんは、この傘を作り始めて20年のベテランで、1日で約150本の傘を作っています。小さな傘を作るために細かい手作業で器用に作っていきます。 |
梶賀小学校 <かじかしょうがっこう> |
241段の石段がある小学校で山の中腹に見える木造の校舎。 明治11年1月14日に開校し、1,103名の卒業生を送り出し、平成10年3月に120年の歴史を終えて休校となりました。
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河童のがたろ <かっぱのがたろ> |
昔々、船津川の渕に、イタズラ者の河童のがたろが住みついていて船津の人達は、ほとほと困りはてていました。小さな子が水遊びをしていると、川底へ引っぱり込んだり、川から出てきて畑を荒らしたり悪さばかりしていたので、子供たちは日が暮れると外には出たがりませんでした。 |
かやの木祭り <かやのきまつり> |
五郷町の林業家・旧尾中鋼治邸の庭先にそびえる大きなカヤの木の回りで行われる素朴な山の祭りです。平成15年は11月24日(月)に第12回目の「かやの木祭」開かれました |
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