● 感 想
熊野信仰を考えるには、日本の土着文化、あの世や山への信仰、といった要素が欠かせないことがよく分かる。本書が指摘する内容は、特に違和感なく受け入れることができた。
しかし、今の日本にその要素があるかと言われれば疑問である。死者の国や山への畏敬の念といったものは、かなり失われているのではないか。大都市に暮らす人の多くにとって、山への信仰は生活に何の関係もないことだろうし、開発が進む地方は自然との関係をどんどん疎遠にしているし、過疎化で集落の維持が難しくなっている山間部においては、そういった文化の継承が困難になっている。本宮大社に行くと、「甦る 日本」という大きな垂れ幕がある。こういう現状を踏まえて、日本の土着文化の大切さを訴えているように感じる。
熊野はつい最近まで交通の便が非常に不便なところで(今も不便だが)、地形も山と川と海しかない。そのおかげで開発が進まずに、独特の文化が山間部や海岸の浦々に残っている。それらはまさに、山や海と人の昔からのつながりに根ざした文化であり、山に対する畏敬の念を持つ日本の土着文化に通じるものだと思う。「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録されたキーワードのひとつ「文化的景観」も、そういった文化のうえに成り立っているものだろう。そう考えれば、日本全国で土着の(古来の)文化が消えていく中で、それをかろうじて残していることが、やはり熊野の価値であり熊野信仰の基礎になるように思う。
熊野へのアクセスを良くして観光客を呼び込むことも大切だが、熊野の基礎になるところが守られなくては意味がない。
● 内容の要約(第二部 私の熊野詣については記載していません。)
【第一部 日本の原郷 熊野】
《第一章 熊野の人と風土》
熊野という土地について、縄文時代以前からの生活文化と絡めて考察している。
日本にはもともと狩猟採集文化が定着していたが、弥生時代になって生産性の高い稲作文化が大陸から伝わり、農業国家になり、土着の文化も変化していった。日本の歴史において長らく中心的な都市があった近畿地方においては、日本土着の狩猟(漁撈)採集文化を最も色濃く残すのは熊野である。
また、神話時代の熊野の位置づけについて、古事記と日本書紀の記述から、熊野は共通して「死者の国」というイメージがあった。その後は歴史上の記述にはほとんど登場せず、宇多上皇による熊野詣が行われる頃まで熊野の公式の位置づけは低かった。
《第二章 上皇たちの熊野詣》
宇多上皇1回にはじまり、花山上皇1回、白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回と、院政期には「蟻の熊野詣」とうたわれるまでになった。それまでの位置づけからは考えられないほどの信仰を集めた歴史的な背景について考察している。
大陸からの文化を移入することに熱心だった日本では、その一連の流れである律令国家の体制づくりが延喜年間に完成したことから、文化の国風化へと潮流が変化していった。その流れの中で、もともと日本人が抱いていた「あの世信仰」に重なる浄土信仰が隆盛した。そこで重要な意味を持つようになったのは、山。もともと日本人は「山=死者のいる国」という文化を持っていた。弥生時代に農業国家へ移ったときから、生産性が低いために否定的な意味を担ってきた山が、そういう積極的な意味合いをもって復活してきた。そういった流れの中で、深い山に囲まれてもっとも死者の国らしい熊野が、人々の憧れの対象となり、聖地となっていった。全盛した熊野詣は、無意識のうちに日本人の心に存する、縄文文化への復帰願望の現れではないか。
《第三章 変容する熊野の神》
上皇たちの熊野詣によって権力を大きくするなど変容していく熊野と、その背景について考察している。
上皇たちによる熊野詣が盛んになることで、熊野三山を統括する熊野別当の権力が大きくなっていった。僧兵が跋扈していた時代、熊野の神人たちも武装したのだ。院政の終盤には武士が台頭してきたが、彼らの中で熊野の軍事力を自分達に引き寄せようという動きが活発になった。そして、源平の戦は熊野水軍の名を高めたが、戦闘集団と化すことで熊野三山の宗教的な権力を衰えさせ、熊野信仰を衰えさせたのではないか。
衰えたといっても、後白河上皇の後の後鳥羽上皇はさらに熱心に熊野へ詣でた。その帰結として熊野は、承久の変で上皇側について源頼朝らと戦ったが、上皇側は敗れた。もちろんその後も信仰する人はあっただろうが、時代から見捨てられていった。政治的になりすぎることで宗教的権威を失っただけでなく、結果として政治的選択を誤って衰退していくことになった。
もうひとつ熊野が衰退していった原因として、親鸞や法然によって広がった、本字垂迹ではなく純粋の仏教として確立しようとする宗教的な変化がある。極楽浄土は、山とは関係のない西方十万億土の彼方にある国であり、山を信仰する必要がなくなった。
一方で、「南無阿弥陀仏」と書かれた熊野の神の御札を持ちさえすれば極楽浄土へ行けると説いた、一遍のような浄土教の考え方もあった。しかし、時代の風潮は親鸞や法然の合理主義的な性格に合致した。熊野三山の政治への傾斜と政治的選択の失敗以外に、こういった時代的な変化によって熊野信仰は衰退していった。
《第四章 庶民化した熊野信仰》
院政時代の終焉とともに、熱狂的な熊野への崇拝はなくなり、熊野詣の主体は貴族から一般庶民へ移っていく背景を考察している。
一般庶民の熊野信仰を促進した宗教の1つは、日本土着の神崇拝、山岳崇拝から生まれてきた「修験道」。修験者(山伏)とともに熊野詣の主役を担ったのは、時宗の僧たち。一遍が広めた時宗は、鎌倉時代の浄土教の中で唯一、神に対して友好的な宗派。一遍は熊野の神のお告げによって六字名号のお札を全ての人に配り、一遍に続く二祖・他阿も熊野信仰の心が篤かった。時宗と熊野信仰の深い関係は、時宗の僧が物語の中で重要な役割を演じる「小栗判官」の物語によく現われている。
一遍をはじめとする時宗の僧たちは、諸国を回って踊念仏で喜捨を多く集めたが、そこに多くの乞食たちが従った。「一遍聖絵」に描かれているように、その中には癩者もいたであろう。時宗の教えは、癩者をはじめとする悲惨な庶民を助けた。熊野の神は中世になって、上皇や貴族ではなく、社会の底辺に住んで不治の病に苦しむ人々に広大な慈悲を施すことになった。 |